一般的な呼び方は上方治兵衛と言います。この治兵衛についてはあまり知られてはおりませんが、地元の人々は大層同情を寄せている人物であり、浄蓮寺も特別な供養を行っている人物です。この治兵衛については次のように伝えられております。
寺田治兵衛は昭和60年から数えて約150余年前の天保年間の人であります。上高浄蓮寺の前に徳川の一ツ橋家の陣屋がありました。(現在でも中宿と呼んでいます)この陣屋にこの治兵衛が送られてきて投獄されたのでした。この理由については判然としたことは判っておりませんが、当時禁制であった密貿易の罪であったと伝えられています。又一方八坂神社創建について罪のあるともいわれております。
当時姓を寺田と名乗る程の大阪の豪商であったので、あれこれ八方に手を尽くして保釈を願ったのでした。当然当地の名主をはじめ諸役人にも働きかけたのでした。
当時罪の償いは物質か金銭でしたから、大阪の寺田家では当村2人の代表に金品を頼み保釈を願い出たのでした。ところがこの願いは途中で消えてしまって一向に保釈の気配すらなく、ついに獄死してしまったのでした。この時が天保7年8月23日で年齢55歳でした。
ところで、浄蓮寺二十二世行慶代に寺の墓地の一角に碑を建て、手厚く埋葬したのであります。当時一ツ橋陣屋としても獄死させたことが知られたら一大事で、当村の代表役人としても責任がかぶさってまいります。大阪の寺田家の出方仕方では、重大な事態が起きることは必然であります。そこで病死としたのであります。碑にはこう書かれています。深い理由があって当地に来て病死せりと、この深き故あって..が以上の話の内容であります。
法名は、練光院寺田南汀居士であります。現在でも地元の人に語り継がれていることは、寺田治兵衛に同情を寄せる人が多い反面、保釈金を頼まれながらもネコババした村役人達のずるさが憎らしいのだといっています。
現在でも寺田の子孫が続いており(寺田培氏)、年に数度治兵衛の墓参があるといわれています。